Home / コラム「所沢の足跡」 / ふたりの「とうきち」

将棋名人 ふたりの「とうきち」

江戸から明治時代にかけて、所沢は将棋名人である二人の「とうきち」を輩出しました。

福泉藤吉は明和3年(1766年)所沢村植宿(現在の日吉町)に生まれました。生家は紺屋を家業としており、藤吉自身も将棋のかたわら紺屋の仕事を続けていたようです。 当時、将棋は家元制で、全国の在野の棋士の実力もこの家元の実力を基準としていました。しかし、藤吉も含めた家元以外の民間棋士は賭け将棋や懸賞将棋で糊口をしのいでいたと思われます。 江戸後期に将棋家元は衰退してゆきますが、対照的に力をつけてきた民間棋士の中でも藤吉は最も人気のある一人であったといわれています。

天保6年(1835年)、藤吉は将棋番付で西の大関に格付けされ、民間棋士としては破格の七段を許されます。 天保8年(1837年)72歳で死去。御幸町の川端霊園に葬られました。墓の台石を将棋盤、香炉を駒に模った大変珍しいものです。

「所沢の東吉でも王手にゃ逃げる」という将棋格言で知られる大矢東吉は文政9年(1826年)大矢春関の四男として、所沢新田(現在の所沢新町)に生まれました。幼名を久次郎といい、幼い頃から将棋に長じ、10代の頃に、福泉藤吉の墓前で入門を誓います。その後、諸国を放浪して将棋の腕を磨き、安政6年(1859年)頃には、江戸で棋士として活躍しました。この年の将棋番付で、東吉は西関脇五段と格付けされています。

明治4年(1871年)頃、東吉は所沢に戻ってきます。地元の愛棋家や旦那衆から「強豪帰る」と大いに歓迎された様子が当時の番付表からうかがえます。 明治10年11月の番付で東吉は東の大関七段に昇格、明治20年9月の番付では東の大関八段に昇格し、次代の名人として期待されました。 ところが、これ以後東吉は妻や子に先立たれ、さびしい余生を送ることになります。明治25年(1892年)67歳で死去した東吉は所沢霊園内の墓で静かに眠っています。(F)


参考文献

  • 「棋士『所沢のとうきち』」霜田照夫『所沢市史研究第12号』所沢市《213.4ト》
  • 『ところざわ歴史物語』 所沢市《213.4ト》
  • 『所沢市史 上』 所沢市《213.4ト》
  • 『所澤市史』所沢市《K222ト》
  • 『広報ところざわ縮刷版1』所沢市《K318.134ト1》

「所沢の足跡」地図

御幸町の川端霊園 所沢新町