郷土の哲学者 田中王堂(たなか おうどう)

日本におけるプラグマティズム(実用主義)の先駆者として名高い哲学者・田中王堂(本名 喜一)は、慶応3年(1867年)中富村の田中家に生まれました。

15歳の時、浮田和民の著書に傾倒し政治家をめざして単身上京します。まずは中村正直の同人社で、その後は東京英和学校(現・青山学院)、京都同志社などで学び哲学者を志します。 明治22年(1889年)単身渡米し神学校を経てケンタッキー大学に入学。明治26年には哲学研究のためシカゴ大学に入学し、ジョン・デューイやジェームズ、サンタヤーナの教えを受け、プラグマティズムの思想を身に付けました。 明治31年に帰国した王堂は、東京工業学校(現・東京工業大学)の哲学の教授となります。それ以後、早稲田大学教授・立教大学教授などを歴任します。

この時代、ドイツ哲学が支配的であった日本の哲学界で、米英哲学を擁した王堂は極めて特異な立場を保持していたといえます。 また、当時盛んであった自然主義文学を真っ向から批判し、明治41年に雑誌『明星』に「我が國に於ける自然主義を論ず」を、明治42年には雑誌『中央公論』に「岩野泡鳴氏の人生観及び芸術観を論ず」を発表し、これらの自然主義文学者と激しく対立しました。しかし、実際の王堂は穏やかな人柄で、終始書斎裡の人であったといわれています。

王堂は、大正8年(1919年)53歳の時に結婚し、一男三女をもうけました。晩年は、哲学概論の執筆に情熱を注ぎますが、志半ばの昭和7年(1932年)65歳で病死しました。 墓は多福寺(三芳町)にあり、墓碑には王堂の教え子の一人である石橋湛山撰の言葉が記されています。(F)


「徹底せる個人主義者自由思想家として 最も夙く最も強く正しき意味に於いて日本主義を高唱し  我国独自の文化の宣揚と完成とに一生を捧げたる哲学者  王堂田中喜一此処に眠る」


参考文献

  • 『田中王堂先生』富岡公民館《K289タ》
  • 『所沢市史 下』 所沢市《213.4ト》
  • 『明治文学全集50』筑摩書房《918.6メ50》
  • 『現代日本文学全集94』筑摩書房《918.6ゲ94》
  • 『埼玉人物事典』 埼玉県《K280.3サ》