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伝承に残る2つの猫塚

猫といえば、今も昔も身近な動物ですね。今回は、所沢に伝わる猫の話を紹介しましょう。


勘七猫塚

昔、所沢に、勘七という侠客(きょうかく)がいました。女房のおよしは胸の病を長いこと患っていました。


ある日、用事の帰り道に、子供達が、一匹の子猫をいじめているのを見たおよしは、かわいそうに思い、子供達に 小遣い銭を与え子猫をもらい、そっと逃がしてやりました。

それ以来、およしの病気は眼に見えて良くなり、すっかり元気になりました。勘七も、どこのばくち場に行っても いつも勝ちました。おかげで子分も増え「所沢の勘七親分」として近隣では幅が利く身分となりました。

ある時、八王子の安五郎親分の所で、大掛かりなばくち場が開かれ、勘七も子分の常次郎を連れて出かけました。 ところが、この時はどうしたものか、負ける一方で持っていた小(こ)百両(ひゃくりょう)の金や親分から借りた金まで 全部すってしまい、仕方なく、金を取り寄せに、常次郎を所沢へ行かせました。

所沢へ帰った常次郎が勘七の家に行くと、中がいやに騒がしいので、そっと覗いてみました。

すると、首から上が猫になったおよしが、三味線を弾いて歌い、その周りでは、小猫が2、30匹も踊っています。 びっくりした常次郎は、一目散に八王子へ走って勘七にこのことを話しました。

勘七も驚き、大急ぎで所沢へ戻りました。家へ着くと、およしが愛想良く出迎えました。勘七はいきなりドスに手を 掛け「お前はおよしではなく猫だろう。何の恨があって、家にいるんだ。」とどなりつけました。

およしは、決してそんなことは無いと言い張りましたが、常次郎も共に責めたので、遂に正体を現し
「私は、およしさんに助けられた猫です。おかみさんは、とうに亡くなりましたが、そのご恩が忘れられず、 私がなり代わって勘七さんに尽くしてきました。しかし、正体を見破られた以上はここには居られません。覗き見をした 常さんには、七日の中にきっとこのお返しをしますから。」と言って姿を消してしまった。

それから七日目の真夜中、常次郎が突然叫んだ声にびっくりして勘七が飛び起きて見ると、常次郎が喉を食い切られて 死んでいて、側に年老いた大きな猫が舌を噛んで死んでいました。勘七は肝を潰し、たたられては大変と、手厚く葬り、 そこに塚を築いて手厚く供養しました。


福猫塚

昔、所沢に喜平次という桶職人が住んでいました。

ある夜のこと、喜平次は飼っている猫が、手拭をあねさんかぶりにして、行灯(あんどん)の影で踊っているのを見ました。 喜平次は驚きましたが、誰にも言わず、可愛がっていました。

ところが、その頃から桶屋の商売がうまくいかなくなりました。「これはきっと魔性の猫を飼っているからだ。」 と思いましたが、可愛そうで捨てられずにいました。

しかし、暮らし向きはますます苦しくなります。とうとう決心した喜平次は、財布の底をはたいてイワシを買い、 赤飯を炊いて猫に振舞い「お前も長いこと、この家に居たけれど、もう家では飼っておくことができなくなってしまった。 どこへでも好きなところに行って親切な人に拾われてくれ。だが、お前に魔性があるなら、それを人のためになることに 使わなければいけないよ。」と言って聞かせました。猫はじっと聞き、そのまま素直に姿を消しました。

その年の暮れ、喜平次の家から数町離れた和泉屋という料理屋へ喜平次の猫にそっくりな猫が迷い込みました。

可愛がっていると居つくようになり、やがて、店先へ出て、ちょこんと座り「おいでおいで」と手招きを始めました。 その愛嬌に思わず人々は店に立ち寄り、和泉屋はたちまち大繁盛しました。「あれは福猫だ。」と評判になりました。

時を経て、明治の初め頃、亡くなった福猫を奉るお堂が鎌倉街道の外れの塚の上に建ちました。 商売繁盛の守り神として、参拝に来る人が後を絶たなかったそうです。(K)


参考文献

  • 『所沢市史 民俗』所沢市《213.4ト》
  • 『所沢史話』内野弘/教育委員会《213.4ウ》
  • 『ところざわのむかしばなし』《K388ト》
  • (こども広報ところざわからの抜粋)
  • 「こども広報ところざわ」47号