三ヶ島の目医者 鈴木一貫(すずき いっかん)

江戸時代、薬といえば、家伝の漢方薬を、近在の求めによって売る者がいました。中には江戸などで修行する者もいましたが、 大半は村に伝わる知識をもとにしたものでした。

医業でも同様で、江戸で学んだと伝えられる先人の技を、近在の門弟が学び、自己の体験を加え治療にあたりました。

市内で活躍した医者としては、三富の神谷玄甫(かみや げんぽ)、久米村の菊川儀角(きくかわ ぎかく)等がいます。 今回は、目医者として有名であった三ケ島の鈴木一貫(すずき いっかん)について紹介します。


三ヶ島の目医者

三ヶ島村に目医者として代々著名となった鈴木家がありました。先祖を源太郎重信といい、四代将軍家綱の頃、 旗本として仕えていましたが、後に浪人となり、三ヶ島に土着したと伝えられています。

医師鈴木家の始祖は、宗閑(そうかん)(~1704年)で、その子2人が三ヶ島流目医者の基礎を作りあげたものと思われ、 後に両人の系統が分立し、門の色から三嶋館(さんとうかん)赤門、大明堂(たいめいどう)黒門と呼ばれました。


鈴木一貫

三ヶ島目医者代々の中でその医術を世に広めたのが宗観(そうかん)=一貫でした。

一貫は宝暦9(1759)年、糀谷(こうじや)村(現三ヶ島地区)に生まれ、若くして古今の医学書を読破し、 眼科だけでなく諸病の治療にあたりました。

貧者からは報酬を求めず、治療中に死亡した身寄りのない者は妙善院に葬り、墓石まで建てました。

名声は各地に伝えられ入門する者も数多く、関東一円に及びました。一貫は弟子に三ヶ島流眼科の免許を与え、 その医術を広めました。また、誰でも施療の機会を得られるように、糀谷に逗留所(入院施設をもつ治療所)を開設し、 自身は江戸麹町の治療所を担いました。

文化元(1804)年には医書『眼科(がんか)三世方(さんせいほう)』を刊行しています。

また、江戸における医療施策の改革を求め幕府に建白書を提出しましたが、受け入れられませんでした。

「済生救民(さいせいきゅうみん)」の家訓を継ぎ、治療活動や貧民救済の仁術を社会に確立しようと尽力しましたが、 文政7(1824)年7月25日志半ばで亡くなりました。


現在

現在、三ケ島に残っているものは墓地だけですが、そこに建つ「一貫翁墓碑」には、 江戸で交友のあった儒者安積(あさか)艮斎(ごんさい)により一貫の業績が刻まれています。

赤門は、昭和10(1935)年、小説『大菩薩峠』の著者中里介山(なかざとかいざん)が譲り受けました。 介山が亡くなった後、当時の羽村町へ寄贈され、昭和59(1984)年に羽村市郷土博物館に復元され現在に至っています。

黒門は、入間市宮寺の西勝院(さいしょういん)の山門となって残っています。(K)

※一貫は宗観と号し、名は貫(かん)、字は長制(ながたつ)でした。


アクセス

  • 妙善院 三ヶ島3丁目1410
  • 羽村市郷土博物館 東京都羽村市羽741 電話042-558-2561
  • 西勝院 入間市宮寺489

参考文献

  • 『所沢市史 上』所沢市《213.4ト》
  • 『ところざわ歴史物語』所沢市教育委員会《213.4ト》
  • 『森銑三著作集 第5巻』森銑三/中央公論社《081モ5》
  • 『三ヶ島目医者鈴木一貫物語』新藤康助/ユー企画制作室《K289ス》
  • 『埼玉人物事典』埼玉県教育委員会《K280.3サ》
  • 「日刊新民報」平成17年5月22日

「所沢の足跡」地図

妙善院
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