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湖底の小学校 西狭山小学校

大正末期、山口村(現・所沢市山口地区)に東京市(当時)による貯水池建設計画が持ち上がりました。 山口谷の最上流部に堰堤を築き、多摩川から水を引いて、東京市民の上水として供給しようという計画でした。山口貯水池と呼ばれるこの人造湖は、現在「狭山湖」とも呼ばれています。 この計画により、旧勝楽寺の全住民と旧堀口の一部住民が住みなれた故郷を離れることになりました。 そして、勝楽寺の子どもたちが通学した西狭山小学校も湖底に沈むことになりました。

勝楽寺の学校の歴史は、教育令が布かれた明治12年に大坊、七社神社の薬師堂を仮校舎とした勝楽学校が創設されたことに始まります。明治19年には、山口、上山口、勝楽寺、荒幡の連合村立狭山小学校が創設されました。

西狭山小学校は明治24年に堀口の清照寺を仮校舎として誕生しました。開校当初は、経済的に恵まれた家庭の子女しか通うことができず、児童の数も少なかったようです。明治26年の卒業生は男女合わせてわずか10名でした。 明治34年の春には独立した新校舎が完成。翌35年には山口、上山口、勝楽寺の3村が合併し、新生山口村となりました。

大正9年、同じ村内の山口小学校との合併問題がもち上がりました。西狭山小学区の住民の反対もむなしく、同年9月には両校の合併が決まりました。 両校を統合した学校をどこに建てるかという問題も難航しました。山口村は東西に細長く、中央付近には川があるという難しい地形でした。最終的には中氷川神社の西側に落ち着きましたが、通学の面や校舎の移築など、さまざまな問題がありました。 そこで、昭和4年の貯水池工事開始までは、1・2年生のみ分教場となった旧西狭山小学校へ残ることになりました。 さまざまな問題を抱えたままの西狭山小学校は、この年を最後に湖底に姿を消しました。延べ1,078名の児童が通った小学校の跡も今は見ることができません。(F)


参考文献

  • 『所沢市史 下』所沢市《213.4ト2》
  • 『所沢市立小中学校沿革概要』内野弘《K376.2ウ》
  • 『ところざわ歴史物語』所沢市教育委員会《213.4ト》
  • 『湖底のふるさと』湖底の古里の調査同好会《K292.2コ》
  • 『ふるさと山口を偲ぶ』井上好太郎《K222イ》

「所沢の足跡」地図

⑧狭山湖(山口貯水池)
「所沢の足跡」地図上の〇 狭山湖