飛行機模様の絣「所沢(ところざわ)飛白(がすり)」

明治時代、狭山丘陵一帯で織物が隆盛を極めた時期がありました。 それは、「所沢絣(ところざわがすり)」。商標を「所沢飛白」という木綿絣です。 最盛期の明治39年には年間120万反の生産量を誇り、東北・北陸地方を中心に全国へと出荷されました。

絣木綿の生産はもともと狭山丘陵南麓の村山地方ではじまり、「村山絣」と呼ばれていました。それが、婚姻などで所沢地方にも伝わり、狭山丘陵周辺で生産されるようになりました。この絣が所沢に集荷されていたことから「所沢絣」として世に知られるようになりました。 狭山丘陵において織物業が発達した背景には、当地の農家が多角経営だったことがあります。稲作だけではなく、サツマイモや茶などを栽培したり、蚕を買って繭を売ったりして現金収入を得ていました。自宅で織った綿布や絹布も自給用のほか、換金の対象としていました。

商標で所沢絣の「絣」の字を「飛白」と当てるのは、紺地に白く抜かれた模様が中国の書体の一つ「飛白体」に似ていたからといわれています。また、明治30年代には中柄・大柄の幾何学模様が主流となり、「紺地に白が飛ぶ」というイメージもあったようです。 所沢絣は、主に普段着として着る大衆向けの布地で、代表的なものでは、「マルマメ」「繭に飛行機」「文久銭」「カメノコ」などの柄がありました。 「マルマメ」は主として男物で、男児から10代までの青年用、「文久銭」「カメノコ」は若い女性向き、「繭に飛行機」は男児から10代半ばまでの少年用の柄でした。

所沢絣の特徴は「一本絣」にあります。一本絣は経糸(たていと)の本数が少なく、緯糸(よこいと)を太くして密度と厚さをおぎなっていました。このため、織りあがりが堅牢で、風合いも柔らかく、寒い地域で好まれたようです。

大衆品として明治30年代後期に大流行した所沢絣でしたが、その後急速に衰退してゆきます。背景には粗製濫造や、大衆の関心が紬などの絹織物に移行してしまったことがあるようです。また、昭和4、5年の山口貯水池建設にともなう移転によって多くの機屋が湖底に姿を消したそうです。(F)


参考文献

  • 『所沢飛白』宮本八重子/編《586.77ト》
  • 『飛行機・繭玉 織り出す絣』所沢市教育委員会《K586ト》
  • 『所沢市史 民俗』 所沢市《213.4ト》