所沢の井戸

冬の関東地方は、空気の乾燥した日が続きます。今も昔も心配なのは火の用心。

昔、所沢は火事に対する警戒が非常に厳重で、冬季には絶えず火の番が回っていました。「所沢の火事は水で消さずに土で消す」 などと言われるほどに、所沢は水に苦労していたためです。今回は、そんな水と関係の深い井戸にまつわる話を紹介しましょう。


掘り難い井戸

武蔵野の地は台地であるため、地下水位が低く、20m~30mも掘らなければ飲料水を蓄えることができませんでした。 そのような武蔵野の歌枕として「堀兼(ほりかね)の井」があります。いくら掘っても水が出ない。井戸でありながら"掘り難(かね)"る といった言葉のおもしろさなど文人に好まれたようです。

狭山市堀兼(ほりがね)の堀兼(ほりがね)神社(じんじゃ)に「堀兼の井」があります。 しかし、「ほりかねの井」と称する井戸跡は各地に残っており、どれをその井戸とするかは定めがたいと、 江戸時代に編纂(へんさん)された『新編武蔵風土記稿』に記されています。

狭山市には北入曽の常泉寺観音堂の横にも、日本武尊(やまとたけるのみこと)が掘ったとの伝説の残る「七曲(ななまがり)の井」があり、 こちらも「ほりかねの井」の1つと言われています。(参照:狭山市HP)


カタツムリの井戸

近くに大きな河川に恵まれなかった所沢では、町の中に井戸を掘って生活用水を確保しました。

底まで深く、崩れ易い砂礫(されき)層からなる土地では垂直に掘り下げることは困難で、地面を漏斗(ろうと)状に掘りました。 カタツムリの殻のように渦巻き状なので「まいまいず井戸」とも呼ばれました。こういった大きな井戸は、1つ掘るのにも莫大な費用がかかりました。

家から離れた共同の井戸からの水汲みは大変な仕事でしたし、1つの井戸を20~30戸で使うものですから、混雑時などは時間もかかりました。 その大変さは、近隣で「所沢には娘を嫁にやるな」と言われるほどでした。

また、水汲みを商売とする者も現れました。 一日中井戸から水を汲み上げているため、その者は手の平の皮が、踵(かかと)の皮より厚かったそうです。


弘法の三ツ井戸

"弘法の三ツ井戸"は所沢に伝わる有名な伝説のひとつです。

1人の僧が所沢に訪れた時、とある一軒の家に立ち寄り、水を1杯頼みました。家の人は快く引き受け、水を汲みに出かけましたがなかなか帰ってきません。 長いこと待ってようやく帰って来ました。

訳を尋ねると娘は、水に不便な土地であり、井戸が遠くの方にあるため水汲みに時間がかかることを答えました。それを聞いた僧は3つの場所を指し示し、 そこに井戸を掘るように言いました。

そこを掘ると深く掘ることなく水が湧き出し、日照りが続いて他の井戸が枯れても、この井戸は枯れることはありませんでした。 後に僧は弘法大師であったと言われるようになりました。

この話でも水汲みの大変さが語られています。(K)


アクセス

  • 弘法の三ツ井戸 西所沢1-26
  • 堀兼神社    狭山市堀兼2220
  • 常泉寺観音堂  狭山市北入曽1366

参考文献

  • 『所沢市史 民俗』所沢市《213.4ト》
  • 『ところざわ歴史物語』所沢市教育委員会《213.4ト》
  • 『大日本地誌大系14新編武蔵風土記稿8』雄山閣《K290.1シ8》
  • 『埼玉の神社 入間北埼玉秩父』埼玉県神社庁《K175サ》
  • 『歌枕歌ことば辞典』片桐洋一/笠間書院《R911.107カ》

「所沢の足跡」地図

弘法の三ツ井戸
「所沢の足跡」地図上の〇 弘法の三ツ井戸