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所沢陸軍飛行学校と少年飛行兵の像

明治44年、わが国初の飛行場がこの所沢の地に誕生しました。それから終戦まで日本における航空の発展は この所沢の地とともにあったといっても過言ではありません。

大正8年、将校及び下士官の教育を目標として陸軍航空学校がこの所沢に開校しました。

大正10年には下志津(千葉県千葉市)と明野(三重県伊勢市)に分校が設けられ所沢の本校は陸軍航空の総本山的役割を担いました。

大正13年、陸軍航空学校は改称され、所沢陸軍飛行学校となりました。下志津と明野の分校はそれぞれ独立し、航空における各分野ごとの教育をすることになりました。所沢陸軍飛行学校では主に基本操縦と機関工科を担当しました。

昭和8年、所沢陸軍飛行学校令が改正され、少年航空兵教育が加わることになりました。ところが、 この少年航空兵教育が加わったことにより学校が手狭となってしまい、操縦教育と機関教育を分離する必要が生じました。

昭和10年、所沢陸軍飛行学校の機関科を分離独立し、陸軍航空技術学校が誕生しました。 さらに昭和12年には下士官と少年航空兵の整備教育を分離独立させ、陸軍航空整備学校が誕生しました。これにより、所沢陸軍飛行学校は廃止され、19年間にわたる飛行教育機関の役目を終えました。

昭和16年、陸軍航空技術学校は立川に移転。昭和18年には同様の陸軍航空整備学校が岐阜に設置されたことから、所沢陸軍航空整備学校と地名を冠した学校名に改称されました。

同じような名称の学校が次々と分離・独立・設置されてゆくことから、戦時中の航空の発展が急速であったことがうかがえます。 所沢陸軍航空整備学校は終戦まで幹部候補生の教育、少年飛行兵技術教育の中心的存在でした。

昭和19年、この所沢陸軍航空整備学校の敷地内に「少年飛行兵の像」が建立されました。 この像は昭和18年に彫刻家の長沼孝三(1908-1993)が第2回大東亜戦争美術展に出品したものです。

翼を抱き、空を見上げる航空整備兵3人の姿は当時の少年飛行兵や整備兵のシンボルとされました。別名「健児の塔」と呼ばれ『陸軍少年飛行兵史(補遺)』に掲載されている「所沢陸軍航空整備学校配置図」では 建空神社のすぐ隣に「健児の塔」が記載されています。

この「少年飛行兵の像」は所沢航空資料収集する会の尽力により修復され、現在も所沢航空記念公園のほぼ中央(放送塔と時計塔の間)で静かに平和を見守っています。(F)


参考文献

  • 『雄飛-空の幕あけ所沢』所沢航空資料調査収集する会《538ユ》
  • 『飛翔-所沢飛行場の経歴』所沢航空資料調査収集する会《K390ト》
  • 『陸軍少年飛行兵史』
  • 『陸軍少年飛行兵史(補遺)』少飛会《K396リ》